本日午後、第110回島根大学総合博物館市民講座「弥生時代の出雲と吉備の交流」を開催しました。この講座は、平成30年度島根大学総合博物館市民講座第2ステージ「古代出雲と諸地域の交流を探る」 の最終回です。
今回は、石田爲成先生(岡山県教育委員会)が講師を務め、弥生時代の墳丘墓や土器の動きからうかがえる出雲と吉備の交流について解説されました。
まず、弥生時代中期末(約2000年前頃)の交流については、「塩町式土器」と呼ばれる弥生土器の動きからうかがえるようです。備後北部を中心に分布する「塩町式土器」は、石見や出雲にも運ばれているようで、人の動きがあったことがうかがえます。この頃、備後北部や出雲で出現する「四隅突出型墳丘墓」は、この「塩町式土器」の伝播と軌を一にしているようです。
つづく弥生時代後期後半(2世紀後半頃)になると、吉備南部の楯築墳丘墓と出雲の西谷3号墓の間に埋葬施設や副葬品などの共通性がみられるようになります。また、西谷3号墓で見つかった特殊器台・特殊壺と呼ばれる土器は、吉備から伝わってきたもののようです。
最後の弥生時代後期末から古墳時代初頭(3世紀頃)の交流としては、吉備において山陰系土器が数多く出土していることからうかがえます。この頃、山陰から多くの人が吉備にやって来ていたようです。
講演後は、「土器が伝わるのは土器そのものが交易品だったのか?」「四隅突出型墳丘墓が最初に生まれた地域は、備後北部か?出雲か?」といった質問がなされ、議論を深めることができました。
今回は、石田爲成先生(岡山県教育委員会)が講師を務め、弥生時代の墳丘墓や土器の動きからうかがえる出雲と吉備の交流について解説されました。
まず、弥生時代中期末(約2000年前頃)の交流については、「塩町式土器」と呼ばれる弥生土器の動きからうかがえるようです。備後北部を中心に分布する「塩町式土器」は、石見や出雲にも運ばれているようで、人の動きがあったことがうかがえます。この頃、備後北部や出雲で出現する「四隅突出型墳丘墓」は、この「塩町式土器」の伝播と軌を一にしているようです。
つづく弥生時代後期後半(2世紀後半頃)になると、吉備南部の楯築墳丘墓と出雲の西谷3号墓の間に埋葬施設や副葬品などの共通性がみられるようになります。また、西谷3号墓で見つかった特殊器台・特殊壺と呼ばれる土器は、吉備から伝わってきたもののようです。
最後の弥生時代後期末から古墳時代初頭(3世紀頃)の交流としては、吉備において山陰系土器が数多く出土していることからうかがえます。この頃、山陰から多くの人が吉備にやって来ていたようです。
講演後は、「土器が伝わるのは土器そのものが交易品だったのか?」「四隅突出型墳丘墓が最初に生まれた地域は、備後北部か?出雲か?」といった質問がなされ、議論を深めることができました。
平成20年6月から始めた当館の市民講座も110回目が終了し、今回が”平成最後”の講座となりました。来年度、年号が変わってからも、引き続き本学の様々な学術成果を中心にして市民の皆様に発信していきたいと考えております。今後ともよろしくお願い致します。
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