第116回島根大学総合博物館アシカル講座「考古学からみた出雲国神門郡・大原郡の官衙遺跡」を開催しました。

 本日午後、第116回島根大学総合博物館アシカル講座「考古学からみた出雲国神門郡・大原郡の官衙遺跡」を開催しました。この講座は、令和元年度島根大学総合博物館アシカル講座第2ステージ「ここまでわかった!!『出雲国風土記』の世界」(まつえ市民大学連携講座)の第2弾になります。
 今回の講師は、考古学をご専門にされ、雲南市で多くの発掘調査を手がけられている志賀崇先生(雲南市教育委員会・島根大学法文学部山陰研究センター客員研究員)でした。733年に成立した『出雲国風土記』に記載されている出雲市西部の「神門郡」および雲南市北部の「大原郡」にあった官衙遺跡(役所・官庁などに関わる遺跡)について、最近の調査研究成果をもとに解説していただきました。
 まず、地方の官衙には、国・郡の役所、駅家(うまや)などの交通に関わる施設、軍団・烽(とぶひ)などの軍事施設があることの説明がありました。『出雲国風土記』には、こうした施設の場所などの情報が記載されています。しかし、発掘調査で見つかった官衙と推定される遺跡は、必ずしも風土記に記載されている場所と整合しない場合があるようです。
例えば風土記には、「神門郡」郡衙は、神戸川の右岸にあるように記述されています。しかし、考古学的に神門郡郡衙遺跡とみる説が有力な出雲市古志本郷遺跡は、神戸川の左岸にあるのです。一方で、この近くの神戸川右岸にある出雲市天神遺跡でも郡衙遺跡を推定させる遺構が見つかっています。このことから、天神遺跡は、郡衙が移転したもの、あるいは郡衙の出先施設であった、などの説が唱えられています。
 また、「大原郡」の郡衙は、風土記に記述された方位・距離をそのままたどると大原郡を飛び出して、飯石郡の場所になってしまうようです。一方、雲南市郡垣遺跡では、郡衙らしき遺構が見つかっていることから、風土記に記述してある方位を「西」から「北」に読み替えることで、おおむね矛盾が解消するようです。
 今回の講演では、文献に書かれている情報ですべてが分かるわけではなく、考古学の調査研究成果と総合することでより詳細な古代の状況が解明されるということが理解できました。

 次回のアシカル講座は、「発見!古代の山陰道-出雲市杉沢遺跡の調査を中心に-」【2/15】 です。引き続き、よろしくお願い致します。

コメント