第66回島根大学ミュージアム市民講座「建物配置・構造からみた出雲国庁の実態」を開催

 本日午後は、松江スティックビルにて第66回島根大学ミュージアム市民講座「建物配置・構造からみた出雲国庁の実態」を開催しました。

 講師は、大橋泰夫島根大学法文学部教授でした。内容は、出雲国庁(古代の出雲国を統治した役所)がいつ頃成立したのか、その構造はどのようなものであったのかというお話でした。

 国府の成立時期をめぐっては、主に2つの学説があります。1つは、8世紀の第2四半期になってからというもので、奈良時代の初めまでは、国府がまだ整備されておらず郡家を仮庁舎としていたとみる説です。2つめは、藤原京に都があった7世紀末から8世紀初頭頃には、すでに国府が郡家とともに設置されていたという大橋教授が提唱されている説です。

 733年成立の『出雲国風土記』には、国庁と意宇郡家の記述がみられますが、読み方によってどちらの解釈も可能でした。一方、出雲国庁跡出土の木簡には、「大原評(おおはらのこおり)」という701年以前に用いられた行政区域名がみられます(701年以降は、「大原郡」と呼称。現在の雲南市の一部に相当)。さらに出雲国庁跡の発掘調査では、7世紀後半の土器なども出土しています。こうした成果から、近年では、後者の説の信ぴょう性が高まってきています。

 また、出雲国庁跡では、7世紀後半にさかのぼる可能性がある、官衙に特徴的な長舎(ちょうしゃ)と呼ばれる細長い建物跡が見つかっています。こういった長舎は、出雲国神門郡庁跡とみられる古志本郷遺跡(島根大学出雲キャンパスの北西側)や出雲国大原郡庁跡とみられる郡垣遺跡からも検出されています。

 これまでは、こういった長舎は、郡庁であって国庁ではないと考えられてきました。しかし、大橋教授は、全国的な事例から、7世紀後半の長舎には、国庁もあるのではという説を提唱されています。出雲国庁で見つかっている長舎は、7世紀後半から始まる初期国庁のもっとも古い事例として位置付けられる可能性があります。

 以上のように出雲国は、古代の律令制度について、考古学的に遺跡から読み解く研究と文献史学的に史料から読み説く研究が進んでいます。今後のさらなる調査研究の進展に期待したいと思います。

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