第94回島根大学ミュージアム市民講座「大原郡家の移転について-雲南市・郡垣遺跡の調査成果を中心に-」(まつえ市民大学連携講座)を開催

 本日、松江スティックビルにて、第94回島根大学ミュージアム市民講座「大原郡家の移転について-雲南市・郡垣遺跡の調査成果を中心に-」(まつえ市民大学連携講座)を開催しました。この講座は、平成28年度島根大学ミュージアム市民講座第2ステージ「"古代出雲"の交通ネットワークを探る」(兼:まつえ市民大学連携講座)の最終回になります。

 本日の講師は、島根大学法文学部山陰研究センター「『出雲国風土記』の学際的研究」プロジェクトの共同研究者でもある志賀 崇先生(雲南市教育委員会)でした。

 今回は、飛鳥時代から奈良時代の出雲国大原郡(現在の雲南市北部)の郡家(郡役所)がどこにあったのかについて、最新の調査研究成果をもとにお話していただきました。
 733年編纂の『出雲国風土記』によれば、大原郡の郡家は、旧郡家から新郡家に移転したとあり、新郡家のほうは現在のJR木次駅近くにあったと考えるのが定説となっています。一方、旧郡家のほうは、風土記に記載された方位に混乱があることから、さまざまな説がありました。しかし、2006年、雲南市大東町仁和寺にある郡垣遺跡で、大型の掘立柱建物跡が見つかりました。この建物跡の丁寧な分析によって、現在、ここが7世紀末から8世紀前半頃の大原郡の旧郡家跡と考える説が有力となっています。

 なぜ郡家が移転したのかについては、在地の有力豪族が交替したからという説のほか、出雲国内の交通路の変化が要因になったという説の紹介がありました。新郡家があるJR木次駅付近は、斐伊川の水運にアクセスする利便性がよく、『出雲国風土記』に書かれた、飯石郡家へ向かう古代の「南西道」と仁多郡家へ向かう古代の「東南道」の分岐点になります。現在の雲南市木次町もそうですが、こうした交通ネットワークの拠点の地であったことが、ここに郡家を移転させた要因になったとみるわけです。

 本日は、雪が降るあいにくの天候でしたが、多くの方々にわざわざ会場まで足を運んでいただき、熱心に聴講していただくことができました。ご清聴ありがとうございました。

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