第105回市民講座「石見銀山の開発とグローバル世界の誕生」を開催しました。

 本日午後、松江市市民活動センターで第105回島根大学総合博物館市民講座「石見銀山の開発とグローバル世界の誕生」を開催しました。この講座は、平成30年度 島根大学総合博物館市民講座第1ステージ「石見学Ⅱ-世界遺産・石見銀山とその周辺-」の第3弾になります。
 本日の講師は、石見銀山資料館館長の仲野義文先生につとめていただきました。
 石見銀山は1526(大永6)年ないし1527(大永7)年に博多の商人・神谷寿禎が発見したと伝えられています。
 石見銀山が発見された16世紀は、コロンブスがアメリカ大陸を、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見するなど、まさに「世界が一体化」し、国際通貨としての銀の需要が高まっていた時代でした。このころ中南米では、ポトシ銀山、サカテカス銀山、グアナファト銀山があいついで発見されており、石見銀山の開発も世界的な銀ブームの文脈の中でとらえる必要があるようです。また、中国の明でも、税の銀納化がすすんで、銀に対する需要が高まっていました。
 こうしたなか、石見銀山では、1533(天文2)年、灰吹法と呼ばれる精錬法を導入し、大量の銀生産が可能になったのでした。銀生産の拡大によって、大量の銀が朝鮮・中国に輸出されるようになります。さらに、1543年、ポルトガル人が種子島に到来して以降始まった南蛮貿易では、日本から銀が主に輸出されました。つづく江戸時代になると、オランダやイギリスとの朱印船貿易が始まり、同様に銀が輸出されていきます。
 こうした銀を基軸とした国際貿易によって様々な文物が日本にもたらされました。例えば、南米原産のものとしては、トマト・じゃがいも・煙草・梅毒など、ヨーロッパ産のものとしては小麦・馬・ペスト・キリスト教などがあげられます。
 しかし、17世紀半ばになると日本の銀の産出は減少していき、江戸幕府は金銀の国外流出を抑制するようになります。徳川吉宗の時代になると、それまでの輸入品の代替として、朝鮮人参の国産化、顕微鏡・望遠鏡・眼鏡といった西洋由来の機器の国産化、蘭学など西洋の学問・文化・技術の導入といった政策がおこなわれるようになります。こうした動きが明治以降の日本の近代化の基礎になったといえるのです。
 以上のように、16世紀以降、石見銀山の銀が基軸となって国際貿易が活発になり、様々な文物が世界を移動するようになりました。その流れは、銀の産出が衰退したあとも続き、日本の近代につながっていくのでした。石見銀山が単に銀を大量に産出した鉱山であったというだけでなく、世界の経済・文化などの様々な面に大きな影響を及ぼした、人類史的価値をもつ、まさに世界遺産にふさわしい鉱山であったということがよく理解できた講座でした。
次回は、本シリーズ最終回「石見銀山の輝きの源を探る」(9/8)です。ご期待ください。

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