本日午後は、第142回アシカル講座「古代瓦からみた出雲と備後の交流」を開催しました。この講座は、令和5年度アシカル講座第2ステージ「古代出雲と諸地域の交流を探るII」の第2弾です。
今回は、三次市から藤川翔先生(三次市教育委員会 文化と学びの課 主任主事)にお越しいただき、三次市にある国史跡・寺町廃寺跡の発掘調査成果を中心にして、出雲と備後との古代の交流について解説していただきました。
まず、寺町廃寺跡がどのような古代寺院なのかについての紹介がありました。これまでの調査によって、金堂跡、塔跡、講堂跡などの配置や規模が明らかにされ、飛鳥時代から平安時代にかけて存続した「法起寺式伽藍配置」をもった寺院であることが解明されています。
この寺町廃寺跡は、平安時代に編纂された『日本霊異記』上巻7縁に登場する、百済僧・弘済が備後国三谷郡に建立した「三谷寺」のことではないかと考える説が有力です。
つづいて、瓦からみた出雲と備後との交流について解説がありました。三次市の寺町廃寺跡からは、「水切り瓦」といわれる下端が三角形状に尖った軒丸瓦(軒先を飾る丸瓦)が出土しています。この「水切り瓦」は、出雲市にある神門寺境内廃寺、稲城・小野遺跡、壱丁田遺跡、三井II遺跡などでも出土しています。なかでも、三井II遺跡の水切り瓦は、寺町廃寺跡で見つかっているものと同じ文様をもっており、同じ笵型(粘土を押し付けて文様を付ける木製の型)で作られていることが分かっています。
こうしたことから、備後と出雲との間で国を越えた工人の移動があったことが想定されています。上記した百済僧・弘済は、「三谷寺」のほかにも多くの寺院の建立に関わっていた可能性が想定されています。備後と出雲との古代寺院に関わる交流の背景には、百済僧・弘済の活動があったのかもしれません。
いずれにしても両地域のこうした関係は、わが国における仏教文化の地域への普及を考えるうえで重要な事例であるといえるでしょう。
次回3/30(土)は、このシリーズの最終回、第143回アシカル講座「『出雲国風土記』からみた出雲と備後の交流」です。皆様のご参加をお待ちしております。
講座の様子 |
島根大学総合博物館アシカルに展示されている「水切り瓦」のレプリカ (中央の資料。下端が三角形状に尖る) |
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