第160回アシカル講座「石見銀山の衰微と開発・経営の継続」を開催しました。

 本日午後は、第160回アシカル講座「石見銀山の衰微と開発・経営の継続」を開催しました。この講座は、地質学・考古学・歴史学の視点から世界遺産・石見銀山について学ぶ、令和8年度アシカル講座第1ステージ「石見学V ~ 発見499年!世界遺産・石見銀山を学びなおす」の第2弾です。

 今回は、小林准士先生(島根大学学術研究院 人文社会科学系 教授・島根大学総合博物館 兼任研究員)にご出講いただき、江戸時代における石見銀山の経営状況の変遷について解説していただきました。

 石見銀山は、16世紀末~17世紀前半の慶長から寛永年間頃には、「大盛」と記述されるなど、銀産出の最盛期を誇っていました。江戸幕府は、銀山経営のために投資をしても、リターンとして、それを上回る莫大な税収が得られたのです。

 しかし、17世紀半ば以降、産出する銀は減少していき、それに伴って税収も激減しました。リターンの割には、むしろ銀山の開発・維持費用がかかるようになっていきます。銀山経営の目的は、利益を得ることよりも、幕府の貨幣材料を入手することに限定されるようになったのでした。

 こうした赤字経営のなか、江戸時代半ばの18世紀以降は、幕府による「貸付銀(かしつけぎん・貸付金)」の利子収入などによって、銀山の開発・維持費用が何とか調達されるようになっていきます。しかし、19世紀第2四半期以降、「貸付銀」の焦げ付き、貸付利子率の引き下げ、債権放棄などによって、頼みの綱の利子収入が低下することで、銀山経営は益々苦しくなっていきます。

 19世紀半ば以降は、採算を度外視した銀山経営の継続が、銀山だけでなく、「銀山料(石見銀山周辺の幕府直轄領)」全体からの税収をも減少させる事態になっていきました。それでも幕府の貨幣材料の確保のために、石見銀山の経営は江戸時代の終わりまで何とか続けられたのでした。

 次回のアシカル講座は、石見銀山を胚胎する仙山火山の活動・地質・鉱化地域」【8/22】です。皆様のご参加をお待ちしています。

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